プロレスの魅力について思うこと

プロレス考

なぜ俺はプロレスに魅了されるのか、それを整理するためにも一度文章にしてみようと思う。
本当は“人々はなぜプロレスに魅了されるのか”くらい言いたいところだけれども、所詮はにわかのプロレス好き。それに肝っ玉が小さいので主語は小さく……小さく……。
どちらかというと、プロレスを知らない人に向けて、プロレスってこんなだよ!面白いよ!というところを紹介できればと思う。
まず、誰もが思うところ


・プロレスはガチスポーツなのか、スポーツ風ショーなのか

個人的な意見で言えば、プロレスはガチであり、ショーであり、その両方だと思う。
プロレスには台本がある。これはレスラーも運営も語っている純然たる事実だ。中には試合前に今日はお前が勝つから、なんて言われたと語るレスラーのインタビューすらある。だけれども、だったらショーじゃんと思うのは早計だ。
いわゆる台本というのは勝ち負けや大筋のみしか決められていないというのが定説で、細かい展開はレスラーが即興で作り上げていくし、そもそもレスラーの設定やキャラクター、衣装もレスラー自身が考えていることが大半のようだ。まあもちろん運営側がレスラーの出自などのギミック(設定)を決めることもある。
運営にしてみればプロレスはビジネスなので興行を成功させるために集客力のある試合になるよう運営が勝ち負けコントロールしたり因縁の対決といったようないかにもお客が見たくなるような理由ある試合を作る。
レスラーはブッカー(脚本家)の書いた台本の大筋に沿ってストーリーを作り上げていく。
たとえばこうだ。悟空とピッコロ大魔王がいる。彼らはまず自分で自分の設定を考える。サイヤ人だのナメック星人だの、性格だのしゃべり方だの必殺技だの……。
正義の味方の悟空は一度は負けるが最終的に悪のピッコロ大魔王を倒す。ブッカー鳥山明はこういった大筋を考えて彼らに伝える。悟空やピッコロ大魔王はいざ物語が始まればその筋に沿うように物語のディテールを試合をしながら作り上げる。ロール(役)らしいセリフ、会話の応酬、戦い方、そしていかにもな決着の仕方に帰結していく。レスラーはこうした展開の詳細を即興で結末まで作る。設定や因果が細緻であればあるほど物語の輪郭が鮮明になる。
セリフや仕草、展開、すべてが台本通りに決められて進行するならば、それは紛れもないショーであり、演劇と変わらない。
確かにプロレスには寸止めはあるし、明らかに受ける側が協力しないと成立しない技ばかりなのも事実だが、展開を考え、先を読み、その場その場でかけるべき時にかけるべき技を変えてかけ、全力でそれを“受ける”。台本通りのショーとは違う、台本にないそれが台本に広がりと厚みを持たせる。
そもそも、技を安全にかけ、安全に受けるためにはまず十分な技の訓練と肉体トレーニングが必須だ。
必要に応じた筋肉と脂肪、鍛えられたプロレスラーの肉体は紛れもないアスリートのそれだ。
当然安全に技をかけあうといえど、必死で、本気で戦えば痛いし血は出るしケガもするし時には事故が起こり生涯麻痺が残ったり、また死んでしまうこともある。実際にプロレスラーは短命な人も多い。
プロレスのスポーツ的側面はこうした全力の肉体遊戯にある。
プロレスにおける定められし始まりや結末、それは確かにショーかもしれない。しかし鍛え抜かれた肉体と技をもって雌雄を決するのがスポーツならば、プロレスは紛れもない本気のスポーツだろう。
プロレスの試合がスポーツ足りうるのは、彼らがいつだってその鍛え抜かれた肉体で躍動するからだ。

もし悟空が激しい動きも出来ず、カメハメ波も打てないのならば、やっぱり地味な作品しか生まれず、面白味はない。
ありきたりな筋の物語でも、それが名作に化けるのはディテールが物語にドラマと感動を与えるからだ。
そのディテールを実現するための肉体と技と運動神経。
レスラーはありきたりな筋が凡作に落ちることを許さない。
レスラーはその肉体と技をもってスポーツを顕現させ、リング上の物語に十分な奥行きと説得力と彩を与える。

スポーツにはドラマがあるが、それは偶然の産物であり、必ずしも見る者が満足する物になるとは限らない。
ショーにはドラマがあるが、それは必然の産物であり、見る者が満足する物にならなければいかれない。
プロレスに求められるのはショー的な必然の大きなドラマの中にある、スポーツ的な偶然のドラマだ。
プロレスはリング上での血と汗の滲んだ偶然のドラマによって、必然に帰結する。
プロレスは偶然をもって必然をなす。
だからプロレスがガチなのかやらせなのか、そんなことを聞くのは本来ナンセンスなのだ。
どちらかでなければいかれない理由はない。
面白ければいいじゃんと言ってしまえば身も蓋もないが、プロレスの面白さを裏付けするのはプロレスのスポーツ的要素だし、そのスポーツ的要素を生かすためにショーに仕立て上げているのだと思う。
じゃあそのスポーツかつショーのどこに魅了されるのか。


・プロレスの魅力は“ベタの美学”にあると思う

ベタというと聞こえは悪いが、それはつまり、万人受けする、万人が好きなものだ。
多くの人が好きだからこそ、同じような展開、設定が繰り返され、それがベタと呼ばれるようになる。
プロレスは非常にわかりやすい。善人そうな見た目のベビーフェイス(正義)といかにも悪そうな見た目のヒール(悪)。
もちろん役を演じているだけで善良なヒールもいれば粗暴なベビーフェイスもいるだろう。
でもプロレスの舞台の上では彼らの言動はその見た目を決して裏切らない。
ヒールレスラーはなんとも憎たらしい言動でベビーフェイスを、観客を挑発し、試合が始まれば凶器攻撃、反則攻撃はお手の物で、負けそうになると手下や仲間がベビーフェイスの邪魔をしたり果ては審判に絡んで(ヒールが避けた相手の技が“偶然”審判に当たって審判が気絶してしまうことも)試合の進行すら妨げる。もちろん審判がヒールの仲間に気を取られてリングに背を向けたり気絶している間はヒールが反則攻撃を繰り広げる。
そんなヒールを最終的にベビーフェイスがこてんぱんにすれば思わずよくやった!と気持ちが良くなる。
ビーフェイスが寄ってたかって複数のヒールにやられているところに、突然味方のレスラーが乱入してヒールを蹴散らして救い出す。最後は二人の合体技でフィニッシュ。なんともベタだ。
でもそれを陳腐に感じないのは観客が物語に引き込まれるからだ。

ちょっと話は変わるけど、上手い落語家と下手な落語家の違い。わかる?
下手な落語家は噺の途中で、こいつ下手だな〜、と現実に引き戻される。
上手い落語家は噺が終わってから、あ〜面白かった、と現実に返ってきて、終わって初めてこの人上手いなと気付く。
つまり面白い物語に引き込まれると、陳腐だとか非現実的だとか、そんなのはどうでもよくなってしまう。
観客を物語に引き込んでしまえばベタな展開は陳腐には感じないし、むしろみんなが喜ぶ興奮材料になる。だってみんなベタが好きなんだから。
プロレスはベタな展開を陳腐にしない演出にテッテ的に特化したスポーツエンターテイメントだ。
リアルなスポーツではまずありえないベタな展開の連続。それがなんとも楽しい。
圧倒的な力で悪が複数のベルトを奪取し多くの正義がその前に倒れる。そして誰もが絶望しているところに彗星のごとく新たな力が表れて悪を滅ぼす。そしてまた悪が台頭したりする。
はたまたそれとは別に好敵手同士のレスラーが勝ち負けを繰り返し長大なストーリーを紡いでいく。
ベタだけど、俺はこういうのが見たくてプロレスを見る。

一つ印象に残っているシーンがある。
クリスマスの時期の試合だと思う。リングサイドに降りた人気のレスラーに観客が何か言いながらコーナーの脇を指さしている。見るとラッピングされたクリスマスプレゼントが。開けてみると中からパイプ椅子。センキューサンタ!そのパイプ椅子を使って相手をボコボコだ!
何なんだこの茶番はと思うかもしれないが、正直めちゃ盛り上がるし楽しい。
そんなプロレスを楽しむにはどうすればいいのか。


・ヒーローショーを見る子供になろう

ヒーローショーはプロレスに通じるものがある。悪と正義がいて、子供向けだから展開はシンプルだけれども勧善懲悪で。
ヒーローショーを見る子供はその物語の登場人物の一人になりきっている。きっと子供心ながら、中には普通の人が入っていることをうすうす気付いていると思う。でも、そんなこと忘れて全力で応援する。がんばれ!負けるな!うしろ敵が来てる!うしろみて!
思わず手に汗握って叫ぶ。
敵が暴れまわってハラハラする。そんな時はみんなで大きな声でヒーローを呼べばヒーローが現れる。それに興奮し、安堵する。

プロレスも一緒だと思う。ヒールの言動を見て、こいつ悪いやっちゃな〜!やっちまえ!ベビーフェイス!ベビーフェイスコール。ベビーフェイスがやられそうになったらやっぱりハラハラする。熱い攻防が繰り広げられ、ワン、ツー、スリー。最後は観客全員でスリーカウントの大合唱。いつの間にかヒーローショーを見る子供になっている。
ヒールだってただの嫌われ役ではない。悪い奴だがかっこいい。それがプロレスの悪役だ。
悪い奴だけど、憎たらしい奴だけど、悔しいけど強くてかっこいい。
そのうち自分のお気に入りのレスラーが見つかったりするとそのレスラーを贔屓したりするようになる。
レスラーにはそれぞれ必殺技や決め台詞がある。観客は敵味方関係なく一緒にそれを叫んだりする。そうなればもはや観客ではなく、完全に物語の登場人物になってしまう。
まあもちろんすべてのレスラーが厳密にベビーフェイスとヒールに二分されているわけではない。実際のプロレスは正義と悪以外にもたくさんの役柄があるし、もっと関係性は複雑だ。
色々な個性のレスラーがいる。たくさんの個性の中にきっと思わず応援したくなってしまう、そんなレスラーがいるはず。
すぐには関係性や性格、確執なんかは把握できないかもしれないけど、とりあえず試合を観てみる。試合単位でみたって娯楽として作り上げられている。気になったレスラーがいれば調べればいい。そのバックボーンやこれまでの活躍を知ったらきっともっと好きになれる。
そうしたらば、あとはもう物語の中に飛び込むだけ。
さあ、めくるめくプロレスの世界へ。


どうしてこんなことつらつら書きたくなったかというと、中邑真輔というプロレスラーがいて、彼は数年前に日本のプロレスの舞台から、日本よりも規模の大きいアメリカのプロレスの舞台に渡っていった。
アメリカにはWWEというプロレスの団体があるのだけれども、WWEはアメリカで人気の四大スポーツ(野球、アメフト、バスケ、ホッケー)に匹敵するか準ずるくらいにファンも多いとか多くないとか。
中邑は手をぶるぶるさせたりくねくねしたり怪しい動きも多いが、なぜだか人を引き付ける魅力、カリスマがあった。実力も十二分にあって、日本でも活躍していた。
WWEの二軍のNXTという団体、番組に華々しくデビューし、活躍を重ねすぐに二度のチャンピオンになった。
そしてWWEの一軍の団体Smackdownという番組にサプライズ的にデビューを果たした。それは事前に予告されていなかった。
その中邑Smackdownデビューをテレビで見ていた外国人のリアクション動画をたまたまyoutubeで観た。
突然会場が暗転し花道にぽつりと立つ一人のバイオリニストにスポットライトが当たる。
そして弾き始めるのは中邑の入場曲のイントロ……。中邑の入場曲はバイオリンから始まるのだ。この曲がまためちゃかっこいい。
ついに中邑が花道に姿を現し、テーマ曲を観客が合唱する。(合唱するのが中邑の入場のお決まりの流れらしい)
花道でバイオリニストにお辞儀をしたり、くねくねしたりぶるぶるしたり怪しい動きは相変わらず、日本で活躍していた時の中邑だ。
バイオリニストにスポットライトが当たりイントロを弾きだした途端、それを見ていたプロレスファンの外国人たちは一様に息をのむ。このテーマ曲は、まさか、本当に、あいつなのか、バイオリンがいるってことは、マジか、現実なのか、オーマイガッシュ、ノー、ノー、ノー、ノー。ありがとう、オーマイゴッドネス。
中邑が姿を現すと大興奮だ。シンスケー!ナカムラ—!そして歌う。
身体に麻痺のある電動車椅子に乗った青年の動画もあった。
彼が来たんだ!ナカムラが来たんだ!ドキドキする!
不自由な手で頭を抱えたり口をおさえたり飛び跳ねたり、喜びや興奮が見て取れる。
こんなの見せられたらさ、感動しちゃうじゃん。俺の好きな中邑がアメリカでも受け入れられて愛されている。熱いものがこみ上げたよね。
彼が来たんだ!だなんて、まるでおいしいところで現れるヒーローの登場シーンじゃん。
中邑はアメリカでもヒーローになれたんだ!愛されているんだ!って思ったら居ても立っても居られなくなっちゃって、こんな駄文をつらつら書いてしまったわけ。
感情任せの稚拙な文だけれども、これを読んで少しでもプロレスの魅力を感じてくれたらいいなと思う。
楽しいよ。プロレス。